昨日さっそく再読しました。
もっと吸収しなきゃいけないものがある気がしたので。
再読して、
やっぱりまた違う景色が見えた気がしてきました。
今回得た視点を1番ハッキリ表していたフレーズは、
目を背けたくなるところにこそ、眼差しを。そこに見るのは、固く縮こまった友であり、自分だから。
ここに集約される気がします。
最近の私のモヤモヤは、3歳の長男にどうもイライラして怒鳴ってしまったりすること。
キッカケは色々ありますが、
朝食を食べるのが本当に遅くて、食パン半分を40分くらいかけて食べることが、特に気になります。
毎朝毎朝、夫や私に、早く食べなさい!と怒鳴られていたことも原因のひとつではないかと最近は思っています。
彼なりのトラウマや抵抗感が出ているのかもしれないと思い、最近はあまりうるさく言わないようにしていますが、
食べないのもいいことではないし、
もう食べなくてもいいよ、と言えば、それはそれで怒るので、夫も私もまたイライラしてしまいます。
深く理解するということは、言いなりになることでもただ話を聞いてあげるということでもなくて、子どもの置かれた状況や子ども自身が自覚できていない心の葛藤なんかまでも含めて、今その子のなかに何が起きているのかをつぶさに受け止めるということ
本当は、寄り添って受け入れて、解決していけたらいいんだろうな。
でも私自身、いったんイライラスイッチが入ってしまうと、なかなか切り替えられないでいる気がします。
自分の大人気なさにも、さらにイライラします。
長男はパパが大好き。
パパが怒ると、
『パパのこと大好きだから嫌いにならないでー!』と言って大泣きします。
私に対してはあんまりそうならないですが(笑)、それでも2日に1回くらい、ちょっとイライラしている私に対しても、不意に、
『ママ、大好きだよー』
と言ってくれることがあります。
自分はなんだかイライラしているのに、息子はいつもちゃんと『大好き』を伝えてくれる。
なんで大人の私には、それが十分にしてあげられないのかな。
自分がイラッとしてしまうということは、そこに自分の中にもある弱さを見出しているはず、だからイラッとしてしまう。その子のなかにある未熟な部分、弱い部分を認めてあげることは、結局は自分自身のなかにも同じくある未熟な部分、弱い部分を認めてあげることになる。子供たちにを通して自分自身を解放させてもらっている。」
子供との関係の中で、イライラしたくない自分がいて、
子供のことを考えているのに結局なりたいorなりたくない自分のことを考えている気がして、
私って自分本位だなと自己嫌悪しまったりしていたんですが、
井本さんの思考の源も、自分のなりたい姿(=自分自身の解放)と知って少し安心した自分がいます。
『大好きだよ』と言ってくれる長男を鏡にして、
自分のなりたい姿を素直に表現する努力をしたいと感じました。
『ママも大好きよ』ともっとちゃんと言ってあげる、返すだけじゃなくてこちらからもいつも伝えてあげる。
朝食を食べるのが遅いことに対しても言えるのではないかと。
朝食以外の食事を食べるスピードは至って普通なので、きっと朝食にはなにかあるんだと思っています。
表層ではなくて、原因に寄り添って考えないと、長男にとって朝食は憂鬱な時間になってしまう…。
これといって具体的な方法は思いつかないものの、
とにかくそこに目を向けていく努力をしていこうと思います。
イライラしてしまう自分の未熟さを、息子の未熟さを鏡にして、一緒に包み込んで考えて、
こんな自分イヤだな、という次元から脱したい。
息子のためじゃなく、自分自身のため、と折り合いをつければ、イライラはしてしまうとしても、ベクトルを息子に向けて毎回声を荒げることはしなくて済むかもしれません。
そんなことを考えて、今朝は食パンではなく、
ホットケーキミックスとバナナで作ったケーキを焼いてみました。
さて、今朝はどうなるかな…。